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2006年12月

怖い話 除夜の鐘の鳴る時

6年前、わたしは現在の家に引っ越してきた。家の隣はお寺で、敷地を隔てる塀の向こうは墓地になっている。隣が墓地なので平日は静かで良い所だ。小さな寺ではあるが地域住民とのふれあいを大切にしているらしく、大晦日には近所の人たちがみんなで除夜の鐘を突きに訪れる。

5年ほど前の大晦日、もうじき新年という時刻になって隣の寺へ出かけてみた。境内の鐘突き堂には10人くらいの人が並んで鐘を突く順番を待っていた。住職の奥さんらしき女性が長テーブルの前で訪れた人たちに甘酒をふるまっていた。わたしも甘酒をもらおうとした時、不意に横から初老の男性が手を伸ばして先に甘酒を受け取った。順番くらい守ってほしい・・・そんな考えが頭をよぎり、わたしは何気なく男性を横目でにらんだ。ところが、男性は受け取った甘酒を飲む様子もなく、鐘付き堂の片隅に祭られたお地蔵さんの前へ供えた。

よく見ると、小さなお地蔵さんの前には甘酒の入った紙コップが沢山供えられている。この辺の風習なのだろうか、とにかく年齢層の高い人たちは皆このお地蔵さんに甘酒を供えているようだった。

境内にはそれほど大勢の人はいなかった。だが人波が途切れることもなかった。鐘を突く数が108つという決まりもないらしく、ポツリポツリとやってきては甘酒を飲み、あるいはお地蔵さんに供え、鐘を突いて帰って行く。そんな光景を本堂の階段に座って眺めていると、隣の家に住む旦那さんがわたしに声をかけてきた。

しばらくその旦那さんと世間話をして、家に戻ったのは午前2時過ぎ。その時間にもまだ鐘を突く人がいて、わたしは除夜の鐘を聞きながら隣家の旦那さんと一緒に帰路につき、玄関の前で別れた。

正月が終わっていつも通りの生活に慣れてきた頃、隣家の奥さんと偶然玄関先で行き会った。奥さんはわたしの顔を見るなり「ちょっと待ってて下さい」と言って自分の家に駆け戻り、すぐに慌てた様子で戻ってきた。そしてわたしに「おとしだま」と書かれたポチ袋を差し出したのだ。

この年令になって「おとしだま」をもらえる訳はない。わたしが不思議そうな顔をしていると彼女は言った。「ごめんなさいね、お子さんがお産まれになったなんて主人から聞くまで知らなかったもので」

当時、わたしに子どもはいなかった。そう告げると奥さんは首をひねって答えた。「でも、主人が大晦日にお寺でお子さんを連れたあなたとお会いしたって言ってましたけど」

あとで隣家の旦那さんに会った時、ことの詳細を聞いた。わたしが本堂の階段に座っていた時から、わたしの隣にはんてんを着た2才くらいの子どもが一緒にいたらしい。その子はわたしと旦那さんが帰る時もずっと着いて来て、わたしと一緒に家に入って行ったという。大晦日になる度にその気味の悪い話を思い出すのだが、去年の大晦日、やっとその子の正体が判明した。

寺の鐘突き堂の片隅にあるお地蔵さん。実は無縁仏の母子の霊を弔う為に祭られたものだという。昭和の初め頃、この土地に貧しい母子がやって来て寺の鐘突き堂で死んだ。どういういきさつかは判らないが、そこで行き倒れたのだ。仕方なく無縁仏の塚に葬ったのだが、それからというものこの辺で悪いことばかりが続いた。そこで母子の亡骸を鐘突き堂の片隅に移し、お地蔵さんを祭って手厚く葬ると悪いことは起こらなくなった。その話しを知っている近所の年寄り達は今でも、このお地蔵さんに様々な御供物を捧げるのだと言う。

行き倒れた母子の子どもの年令はちょうど2才ぐらいだったという。ちょっと信じられないが、あの時隣家の旦那さんが見た子どもはきっとその子に違いない。

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怖い話 幽体離脱

幽体離脱の話しはよくある。それから金縛りとか。金縛りの場合は人間の「脳」に関係があるなどと言われているが、本当のところどうなのか・・・。

わたしは幽体離脱も金縛りも数回経験した。金縛りは不快だった。眠りたいのに目が覚め、しかも身体の自由がきかない。明日の仕事にさしつかえると思うと更にイライラしてくる。

が、幽体離脱の方は心地良かった。通常ではあり得ないような自由な感覚。重い体を動かさずにどこへでも行けるような気がする。フワフワと宙を漂い、気がつけば眼下に自分自身が眠っている。問題は幽体離脱している時の自分の行動をどうやってコントロールするかだ。幽体離脱した時の自分の動きを自由に操ることが可能なら、きっと人生楽しいに違い無い。

話が逸れたが、ようは幽体離脱した自分をわたしはコントロールできない。この経験をしたのは過去3回。どれも寝室や自宅付近を無意味にフワフワしただけで体に戻った。かなり権威ある博士が(昔の人だが)幽体離脱まがいの現象を意図的に行う方法を自らの本で紹介していた。現在実験中。それはまた後日紹介しよう。

ところで今日は何を書こうか。そうそう、過去3回の幽体離脱のうち、一度だけとても無気味で嫌な体験をした。それを紹介しよう。

かれこれ15年以上前、ある友人の家に泊まりに行ったことがある。夜遅くまでバカ話しで盛り上がり、眠りについたのは午前1時を過ぎていた。いつもオヤスミ3秒でイビキをかくわたしは、その日もすぐに熟眠していたと思う。ところが不意に目が覚めた。とても寒かったのだ。

目を開けてびっくりしたのは、すぐ鼻先に電気の傘がぶらさがっていたことだ。ぶつかるっ!!・・・そう思った時にはすでに天井が迫って見えた。電気の傘をすり抜けたのだ。久しぶりに幽体離脱か?(この時、離脱経験は2回目だった)悠長なことを考えているうちに体はどんどん浮いて行き、天井をすり抜け、真っ暗い天井裏を抜けて屋根へ出た。

ちなみに、電気の傘や天井やら屋根やらを抜ける時どんな感覚かと言うと、全身がざらざらした感じがする。体験者によって感覚は違うのだろうが、細胞というか毛穴というか、そういった場所がざらざらするのだ。

屋根に出ても相変わらず自分自身の動きをコントロールできない。これからどこを漂うのかと思ったが、その日は屋根の上でずっとフワフワしたままだった。

屋根の上からは友人宅の庭が見えた。向い側には所々電気のついた3階建ての建物がある。これは産婦人科病院だった。電気のついた病院の窓からはカーテン越しに動く人影が見える。おそらく数人の人が室内や廊下らしい場所を忙しく動き回っていた。

夜遅くまで病院も大変だな・・・そんなことを思った時、急に背中が重くなった。何かがわたしの背中にはりついているみたいだった。左肩の辺に人間の手のようなものを感じた。だがそれはとても小さい。

何だかとても嫌な感じがしてきた。得体の知れない胸騒ぎのような感覚。同時に、背中にはりついていた何かがわたしの真横に顔を出した。

それは血まみれの赤ん坊だった。まだ手足もしっかりしていない、産まれたての新生児。目もひらかない新生児の顔には額から鼻・アゴにかけて剃刀で斬られたような傷があり、血が出ていた。見るに耐えられず目をつぶると、ガクンッと強く引っ張られる感じがして目が覚めた。わたしは布団の中に戻っていた。

後日、その病院の若い医者が帝王切開に失敗したという噂を耳にした。切開で母親の腹部にメスを入れた時、過って子宮内の胎児の顔まで斬ってしまったのだ。かなりの慰謝料を払って示談で済ませたそうだが、人の口に戸はたてられない。

顔を斬られた胎児は女の子だったらしい。命に別状はなかったというから無事に産まれたのだろう。わたしがあの時会ったのは、その女の赤ん坊かもしれない。とにかく、嫌な経験だったことには違い無い。

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不思議な話 墓石は動いたか

私の育った家庭はちょっと複雑で、母方の大叔母と同居していた。大叔母は結婚していたが、嫁ぎ先の家では暮らさなかった。60代を過ぎての結婚であるし、相手の男性(夫)には先妻との間に生まれた子どもが三人いる。その子どもたちも大人だ。自分が夫と共に暮らすことで、子どもたちに嫌な思いをさせたくなかったのだろう。

大叔母の夫は彼女に心底惚れ込んでいた。毎日足げくやって来ては「結婚してくれ」と言っていた。わたしたち家族の前でも彼は包み隠さずプロポーズをくり返した。

その度に大叔母は「一緒には暮らせないし、この年になって結婚する気もありません。こうやって毎日お話をするだけでいいじゃありませんか」と答えた。

だが、おじさん(彼)は何としても結婚したいと言い張った。「一緒に暮らせなくてもいい、結婚すれば同じ墓に入ることができる。俺はそれだけでいい」おじさんは何度も何度もそう言った。子ども心に、それはとても印象的な言葉だった。

一年以上通いつめるおじさんの熱意に、大叔母は根負けした。結婚式は挙げなかったが、二人は入籍し、法律上の夫婦となった。

結婚してからもおじさんは毎日我が家にやってきた。夕食を一緒に食べ、一時間程で帰っていく。考えてみると、大叔母とおじさんは二人っきりで過ごす時間などなかった。けれど、おじさんはとても幸せそうに見えた。さっぱりとした性格のおじさんがわたしも好きだった。

ある日曜日、珍しくおじさんが昼間遊びに来た。大叔母は留守だった。わたしがそのことを告げると、おじさんはわたしに用がある、ちょっと一緒に出かけよう、と誘った。

おじさんがわたしを連れて行ったのは、近所の寺の墓地だった。黒光りする真新しい墓石はつるんとしていて、まだ字も彫られていない。その墓石を眺めながらおじさんは言った。「おかあちゃん(大叔母)と俺の墓だ。俺たち夫婦がふたりだけで入る墓を買ったんだ。お前だけに内緒で見せてやる」

当時、わたしは12才だった。おじさんが何故わたしにあんなことを言ったのか未だにわからないが、おじさんは続けて言った。「俺はおかあちゃんより早く死ぬだろう。そうしたら、おかあちゃんのこと宜しく頼むな。一緒にこの墓へ入れてくれな。俺は毎日この墓石の下から頭を下げて頼んでるからな。俺は死んでも、きっとここにいるからな」

わたしは笑った。なんて答えていいかわからなかった。するとおじさんは真剣な顔でこう言った。「よし、じゃぁ俺がここにいるって証拠に、お前が墓参りに来てくれたら、俺はこの墓石を動かしてみせる。いいか、絶対に動かしてみせるからな」

その時は「バカなこと言ってるな」と密かに思ったが、大叔母のことはできるかぎりやります、と約束した。おじさんの言葉があまりに馬鹿げてて、あまりに真剣で、そう答えるしかなかった。

そんな約束をした半年後、おじさんは交通事故であっけなく死んだ。うちに来る途中の横断歩道で無謀運転
の乗用車にはねられたのだ。

葬式の前日、おじさんの遺骨をどちらの墓に入れるか、彼の子どもたちと我が家との間でかなりもめたらしい。
子どもたちも、まさか父親が義母(大叔母)と入る墓を内緒で購入しているとは夢にも思わなかったのだろう。結局、分骨という形で折り合いがついた。

やがてわたしも大人になり、大叔母はアルツハイマーに侵されて10年以上入院し、死んだ。大叔母の遺骨はおじさんの望み通り同じ墓に埋葬された。大叔母の納骨に立ち会ったのはわたしたち家族だけだった。納骨の時、わたしは生前おじさんとこの墓の前で交わした会話を初めて家族に話した。父は曖昧に笑っていたが、他のみんなはしんみり聞いていた。

全員が線香を捧げ、手を合わせて帰ろうとした時だ。墓石が ガクッ!! と小さく動いたのだ。みんなびっくりして墓石を見つめた。地震でもあったんだろう、父はそう言った。理由はわからないが、確かに墓石は動いた。科学的じゃないが、おじさんが約束を守ったんだとわたしは今でも思っている。

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怖い話 心霊写真の上手な撮り方

「心霊写真」って撮ったことありますか?

それっぽい写真はたま〜にある。何気なく撮った風景写真の一部が人間の顔に見えたり、集団写真に変な手足や顔が混じっていたり。

ほとんどは光源の具合やフィルムの感光時に問題がある、なんてことをプロのカメラマンから詳しく説明されたことがあるが・・・。

だがそんな理由じゃなく、本当に説明不可能な不気味なものが写ることがあるのだ。

高校時代、学園祭の展示コーナーに「心霊写真」を掲載しようという立案があって、実際に心霊写真を撮りに行ったことがあった。中心となったのは担任の先生で、けっこうオカルト好き。手始めに夕方の学校でバシバシ写してみたが何も写っていない。

そこで近所のお墓へ夜中に集まって撮影会をしてみたが、やっぱり何も写っていなかった。これじゃぁ展示ができないというんで、心霊スポットとして有名な青木ヶ原樹海へ行ってみようということになった。

樹海に着いたのは夕方だった。道路や散策道に入って100枚ぐらい写しただろうか。翌々日、現像写真を受け取りに行った友人が青い顔で戻って来た。そう、見事な心霊写真が撮れていたのだ。

現像された写真のうち、2割が心霊写真だった。マジックで囲まなければわからないような心霊写真でじゃない。誰がどう見ても不気味な心霊影像がくっきり写っていたのだ。

そのどれもが、被写体に必ず人間が入っていた。つまり、わたしたちが樹海で撮影していた時、心霊写真を撮りながらふざけ半分に友だちを写したりした。それらの写真に限って無気味な物が写っていたのだ。

友人の体に半分溶け込んでいるハゲた中年男や、まるで引きずり込むように両足をガシッと掴んでいる女や、何人もの霊体が紙屑みたいに固まって浮かんでいる写真。手に持っているのも嫌になるような心霊写真がごっそり撮れた。

その年の学園祭はおかげさまで「心霊写真コーナー」が大反響。女子生徒の中にはその写真のせいで体調を崩したという人もいたぐらいだ。ちなみに、展示が終わったらそれらの写真はきちんと供養して処分する予定だったが、誰かに持ち去られて所在がわからない。

で、それ以来、心霊写真を撮ってみたいという人にわたしは薦めるのだ。

心霊写真を撮りたいなら有名な心霊スポットへ行くこと。
心霊を撮りたい、と思わずに何気なく写すこと。
被写体に必ず生きた人間を入れること。
後に祟られる場合があること。

以上、上手な心霊写真の撮り方。

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